黒瀬街道

黒瀬街道(其の8) 中津川市高山 2018年2月9日(金) 地形図「付知」

2016年10月から始めた黒瀬街道歩き、8回目でようやく終わる。
今回は高山村木積沢狸洞から日比野村(苗木村)並松の飛騨街道分岐の終点までを歩く。


《狸洞〜高山区民会館》

 
地図

【時間】 駐車場所09:40−高山区民会館10:20

県道408の路肩に車を置いた。前回は気付かなかったが狸洞の入口に踏み跡があった。帰りに入ってみよう。気が付くと麻の葉学園の入口まで来ていた。引き返し、狭い簡易舗装の道に入ると「鉄砲池古戦場」の案内板があった。

街道筋 鉄砲池古戦場
街道筋 鉄砲池古戦場


案内板

少し先で未舗装になり進むと民家の庭になり犬に吠えられた。迂回して進むと峠のようになったが高い位置に水田があり不思議な感じ。そう言えば迂回路の先に高架の水路があったっけ。

これから下ると一気に展望が開ける。焼山は恵那山の後に見える。裏木曽の山の向こうに御嶽山。

恵那山 山並み
恵那山(左)と焼山(奥) 裏木曽の山々

振り返ると、まじかに山が見える。考え考え、高山区民会館に着くとその山の横に頭が2つある山が見える。もちろん二ッ森山。と言うことは岩山なんだ。

岩山 高山区民会館
岩山と二ッ森山 高山区民会館


《高山区民会館〜黒瀬街道終点》

地図

【時間】 高山区民会館10:20−黒瀬街道終点11:10

T字交差点には「一本木平の地蔵菩薩と馬頭観音」がおわす。その大きさに圧倒される。惜しむらくは廃仏毀釈で2つに折られている。

黒瀬地蔵 黒瀬地蔵


案内板

道標
右端にあるのは埋まっていたという道標。

右 ひる川 くろせ 志ら川 かな山
左 木積沢道

とある。


馬頭観音は近年の県道工事の為に移設したという。

道路を横切ると階段の道になったが、この付近は県道及び高山大橋の工事で大きく変化しているので街道筋を確定できない。

付知川支流の丸草川を渡ると池原橋が見える。

街道筋 池原池
街道筋? 池原橋

橋の下には江戸後期の橋脚用の穴が見える。
橋を渡ると句碑と橋造営供養塔がある。

橋脚用の穴 橋脚用の穴 橋造営供養塔
橋脚用の穴 橋造営供養塔

付知川の堤防道を歩くが河原に下る道が見付からなかった。でも帰宅後、高山大橋の上(右岸寄り)から撮った画像にたまたま写っていた。

馬越場 馬越場
左岸から見る馬越場あたり 左岸の河原に下る道

下島遺跡の案内板の前から簡易舗装の細い道に入いると岩山の裾野までが見え、国道257の付近からは笠置山の下に鳶岩巣山が見える。

岩山 笠置山
岩山と二ッ森山 国道257交差点付近から

国道を横断するとすぐに名号塔があるが、ここは移設された場所で本当の終点はこの先300mの三差路。明治期、県道が開通したために現在位置に移されたという。

黒瀬街道終点の名号塔 黒瀬街道の終点
黒瀬街道終点の名号塔
「右 ひだ道  左 くろせ道」とある
黒瀬街道の終点
黒瀬街道(左)と飛騨街道の分岐


《戻り》

飛騨街道の分岐から引き返す。付知川の手前であぜ道を行き、高山大橋を渡ったが、眼下には池原橋が見える。高山区民会館のベンチで昼食を取らせてもらい、いよいよ狸洞に戻って来た。

池原橋 狸洞
池原橋 狸洞(右奥が滑滝になっている)

狸洞の名号塔には「右 かね山道  左 くすみ道」と書かれてあったというが、やっぱり何所にもない。

自宅にて:
「かね山」は現兼山町とすぐに分かるが、「くすみ」は何所だ。蛭川一之瀬から笠置毛呂窪、笠置姫栗で木曽川を渡った対岸の長島久須見のことだとやっと気付いた。

暗渠の20mくらい先から山道に入ったがスニーカーでは心もとない。入口からは左手に「きのこ山境杭」が続いている。そして200mくらい先に石垣があり、これは高山財産区の境界だけではなく「道」だと思った。

杭 石垣
きのこ山の杭 石垣

この石垣の所で引き返したが、帰宅後考える。
高山村八本木の人たちが毛呂窪に行くのに通った道か。蛭川の中心部に出るなら集落の西の端から若山道の峠に下った方が速いし、高山の中心部に出るなら鉄砲池に下った方が速い。何なんだ。

この道に入った本当の目的は航空写真で白く見える所に行くことだったが、スニーカーなのであきらめた。きっと花崗岩が風化して岩肌が白く見えてるのだろう。

車に戻り、靴を履き替え鳶岩巣山に登ろうと考えていたが気力がなく、帰路についた。


《雑感》

蛭川の念仏堂にあった三十三観音の石仏は多くが折られていたし、何所だったか地蔵のお顔が削られていたし、折られた石仏や名号塔もあちこちで見た。

神仏分離令による苗木藩の徹底した廃仏毀釈がなければ、この地方の仏教遺産はもっと豊富にあったろうし、言い伝えも途切れることはなかったと惜しまれる。

仏教は、信長の叡山焼き討ち、江戸幕府の儒学の重視、そして明治の廃仏毀釈で教学は失われ、葬儀と法事で「お経」を唱えるだけの宗教に堕ちてしまった。

更に上げれば、明治39年の一村一社令でも多くの神社が失われた。
もしもの話し、これらがなければ田舎の道歩きはもっと面白いものになっていたはずだ。


《後記》

この8回の記録は『黒瀬街道調査報告書(1997年発行)を参考にした。発行から20年が過ぎ現状は記述と一致しない個所が多くあった。幾人で調査・編纂されたかは知らないが、そのご苦労に対し恵那市文化振興会さまには感謝しかない。



黒瀬街道 其の1 (福地村下落合〜久田見村清水谷)
黒瀬街道 其の2 (小屋ヶ根峠 細目村鯉居〜久田見村清水谷)
黒瀬街道 其の3 (黒瀬湊〜鯉居橋)
黒瀬街道 其の4 (たがみ峠越え 中野方村笹葉〜蛭川村辻屋橋)
黒瀬街道 其の5 (蛭川村辻屋橋〜高山村狸洞)
黒瀬街道 其の6 (坂折峠越え 福地村蔵橋〜中野方村権現神社)
黒瀬街道 其の7 (中野方村内と権現山)
黒瀬街道 其の8 (最終章、高山村木積沢狸洞から日比野村並松の飛騨街道分岐まで) 
黒瀬街道 特別編 (久田見中盛西・野黒と小洞辻)


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