四等三角点町裏 292.8m 関市富之保 2023年1月17日(火) 五万図「金山」 2022/12/29に訪れた三角点町裏が『新撰美濃志』に記載された「古城祉」と確信する為。 |
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《時間》 P 09:30 ⇒ 三角点町裏周辺 10:20〜11:00 ⇒ P 11:50 《三角点町裏へ》 武儀生涯学習センター・関市図書館武儀分館の裏に車を置いた。県道に出てストリートビューで確認した八幡神社の裏を通る道(推測)に入った。踏み跡は植林の中に続いているが獣害防止フェンスで通行止め。山際を行くと農道もフェンスで入れない。やむなく県道に戻った。 |
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道跡 | 農道を塞ぐフェンス |
県道を行き、諏訪神社の右手から山に入ったが超薄の踏み跡。(ここでは神社の左手から入れば良かったかも。)しばらくヤブを行くと沢に出合い、氏神の石碑があった。 |
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諏訪神社 | 氏神さま |
沢を登るが進めなくなり右か左の尾根に逃げなければならなくなった。左は竹があったので右の尾根を登る。踏み跡も何もないただの汚い山の急斜面。どうにか尾根に乗ったが尾根の向きが地図と合わない。「まァいいや高い方へ」 岩尾根を越えると見覚えのある平地で三角点町裏に対面。北尾根に上がったつもりが西尾根に乗っていた。 《山頂付近》 基壇のある削平地から東尾根の堀切を調べる。削平地の縁から15m先に巾3mの堀、その4m先に巾3mの堀、その3m先に巾2mの堀、その8m先に巾3mの堀、そこから鞍部まで10mくらい。 北尾根を下ってみた。急な斜面を下ると小さな削平地、更に下ると幅10m長さ50mくらいの削平地があり、その奥に金毘羅山大権現の石碑があった。 その削平地の上側から諏訪神社(?)に向かって道が下っていたが、これも次第に消えた。 |
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削平地 | 金比羅大権現の石碑 |
西尾根を下ると岩尾根があり、その先に堀切があった。(切岸ではなかった。) |
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直下の岩尾根 | 直下の岩尾根 |
《下山》 八幡神社を目指して西尾根を下る。尾根がY形に分岐したが220mH辺りか。綺麗な方へ下り鞍部を過ぎると若干のヤブ。これを過ぎると祠と石碑があり、チャント注連縄があり道もあった。 道を下るとお堂(薬師と観音なので)があった。 |
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石碑を祠 | お堂 |
えん堤を渡り、拝殿にご挨拶をして、生涯学習センターに戻った。 |
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八幡社拝殿 | 県道出合 |
《関市図書館武儀分館》 蔵書の『武儀町史』を閲覧した。町の城跡に関する記載は「町組」(40ページ)にあったのみ。それも前出の『新撰美濃志』と、その底本の『濃州徇行記』の引用のみ。 その他の記述に、町には明治15年に19戸(『濃州徇行記』には15戸)あったとあるが、現在は田んぼばかりで2・3戸しか見当たらない。何所へ行ったのだろう。 『新撰美濃志』には「町村は岩山崎の北にありて」とあるから現在の一柳も村内だったかもしれない。(同書に「一柳村」という村名の記載はない。) そうすると、大洞城(別名一柳城、町村城:ウィキペディアその他に記載がある)が間違いなく同一ということになり三角点町裏はただの見張り場だったのかもしれない。 でも、『新撰美濃志』には大洞村と町村に別々に「古城祉」の記載があるし・・・、解らない。 大門寺洞 関市下之保 2023年1月17日(火) 2023/1/10に寺洞の涸れ滝が下りられず、大回りして車に戻っている。多少のガケでも登りなら大丈夫だろうとリベンジに向かった。 |
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《時間》 作業道終点 12:20 ↓ 前回の沢を渡る地点 12:40 ↓ 作業道終点 12:55 |
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《登り》 作業道の終点に車を置き、しっかりした道に入った。しかし5分も進まない内に道は流されていてガラガラの谷芯を行く。それもガケで行き止まり、右手を見ると薄っすらと踏み跡が登っていたが、また岩で行き止まり。 諦めかけたがV字谷の向こうが明るく見え、頑張って登るとガケを登り切っていた。そして前回の沢を渡る踏み跡の位置を確認した。 |
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谷芯を行く | V字谷 |
《下り》 早く引き返さないとルートを忘れていまうと記憶を辿るが結構難しかった。 前回の沢を横切る箇所から車まで15分。それを1時間かけて引き返したとは。 でも強引に下っていたらルートが見付からず、途中で落ちていたかもしれない。 やはり遠回りしたのは正解だった。 |
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美濃一人>山名録2023>四等三角点町裏・大門寺洞 |
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