四等三角点町裏 292.8m 関市富之保 2022年12月29日(木) 五万図「金山」 中之保多々羅/富之保大洞の峠道の峠から尾根通しで三角点町裏へ、少し引き返して南西尾根を粟野の墓地の辺りへ下る予定。 《時間》 P 09:40 ⇒ 峠 10:00 ⇒ 三角点町裏 10:45 ⇒(休憩10分)⇒ 市道出合 11:40 ⇒ P 11:50 |
|
《市道の富之保粟野/中之保多々羅の峠付近》 県道63号の武儀郵便局の交差点で右折して市道に入いる。峠手前の空き地に入る為、雪の段差を乗り越えてみる。ノーマルタイヤでも段差をクリアできることを確認して峠を越えた。 旧道(村道か)の入口を確認し、飛騨旧幹線374の巡視路入口を見ると「安宕山大権現登山口」との真新しい看板が立っている。引き返して先程の空き地に車を置き、出発。 |
|
登山口の案内板 | 駐車位置 |
峠の手前には「鳥獣供養塔」の石碑があるがわりと新しそう。峠を越えて峠道の入口を探すと石の階段があった。 |
|
鳥獣供養塔の石碑 | 峠道入口の石の階段 |
《中之保多々羅/富之保大洞の峠道》 峠道は沢の右岸に綺麗に残っている。沢には階段状の石積みがあり、畑の跡だろう。クネクネ道を登り峠に着いた。大洞側に下ってみるとジグザグの道が続いていたが沢の合流点辺りで道跡が消えた。残念だが本流まで下るのをあきらめて引き返した。 |
|
峠道、多々羅側 | 峠道、大洞側 |
《尾根歩きから三角点町裏》 峠からの尾根には境界杭が多数あり薄いが踏み跡もあり、全く問題なかった。その内に杭は無くなり、尾根が南に向きを変えるコブまで来た。所が右手側に尾根が見えない。コンパスをセットして急な斜面を下る。 間違っていてこれを登り返すのはシンドイを思っていると下に尾根が見えて一安心。登りになると不自然な鞍部が4ヶ所? そして山頂と思しきコブに着くと祠の基壇が残っていた。1.4m四方の基壇の傍には大木が3本とトタンの屋根の残骸。辺りを探すが三角点はない。 |
|
基壇 | 屋根の部分か |
尾根の続きを進むと唐突に尾根が消えた。その場所は5×10m位の台地、半分は今抜けて来たヤブ、残り半分はコシダの群生。仕方なくコシダの中を足で探ると石が1ヶ2ヶ、そして金属標の頭が見え、回りのコシダを抜いた。 引き返し、基壇をテーブルに休憩。 |
|
三等三角点町裏 | コシダの群生 |
《下山》 東進して尾根が南へ向きを変えるコブを目指した。そして気になる鞍部を再度確認。3m・10m・4m位の間隔で4ヶ所。こんな頻度で沢が出来る筈もなく、人口的な物で堀切と確信。 三角点東のコブから派生する南西向きの尾根はヤブぽく、シダの密生もある。かなり下って真南の支尾根の分岐を過ぎてしばらくすると南面に道路らしい明るい場所が見え、ヤブはゴメンと植林の中を下った。 もし民家の裏に出たら通して貰おうと考えていたが、畑跡に下り長尾工務店の横から市道に出て、車に戻った。 |
|
長尾工務店 | 地元では無名峰、地図だけにある「大加山」 |
《自宅にて》 三角点町裏の東の尾根の鞍部状の箇所が堀切とすると、三角点のすぐ先で尾根が消えたのは切岸だったのか。 町城・粟野城で検索するが該当なし。近くの津保川と武儀倉川の合流点付近の山地に大洞城(一柳城)跡があった。 この城跡からでは見えない津保川の下流が三角点町裏からは見通せる。(カシミールで) 「町裏には大洞城の見張り場があった」との説は世間に通用するだろうか。 《追記》 『新撰美濃志』で武儀郡を調べてみた。 大洞村 (略)『古城址』は宇佐美左衛門尉住しよしいひ伝へ(由言い伝え)たり 町村 上保十三村のうちなり(略)『古城址』は稲葉右京亮住みし 町村 下保の内(略)むかし稲葉伝右衛門といふ人此あたりに城を構えて (注:上の「町村」が今回の三角点所在地、下の「町村」は下之保殿村の北の字名) 大洞村の古城祉は大洞城(一柳城)跡で、町村にも古城祉があるとなれば三角点町裏の台地と基壇ある削平地以外にはない。『武儀町史』が多治見図書館と関図書館武儀分館にも所蔵されているようなので閲覧しよう。 また、同書の武儀郡中「粟野村」の項に「鈴越峠は東の方中ノ保の方(ママ)へ出る道にあり」とあった。 《2023/1/2追記》 寺田と多々羅で各1人、粟野で2人の方に聞いたが「鈴越峠」は存在しなかった。 |
|
美濃一人>山名録2022>三等三角点町裏 |