太郎治小屋

2015年10月4日起稿

『七宗町史 史料編』の『七宗御巡山日数多少積』には「大崎より御登山太郎治、麻生、高屋、かよう洞え御下山上麻生本郷、下麻生之内御泊」とある。これは以下のように読める。

大崎の集落⇒太郎治小屋⇒麻生高屋⇒かよう谷⇒(飯高)⇒上麻生本郷⇒下麻生泊まり
(注:墨書には句読点は書かないので、麻生と高屋の間の読点は編集間違いと解釈。)

大崎と麻生高屋の間に太郎治小屋があるのだと、ただ漠然と思っていた。

月日が流れ、先日同書の中で面白いものを見付けた。それが下の絵地図。

『七宗町史 史料編』 図版1「現在の七宗山(国有林)絵図」 部分


国有林界の付近に「旧太郎治小屋跡・多々羅屋敷跡」があると見える。
その上、同書の図版4「七宗山多々羅屋敷跡」には石碑、図版5「七宗山多々羅屋敷跡」には石垣の写真が掲載されている。

あんな山奥に杣小屋があるのは分かるが、屋敷跡とはにわかに信じがたい。
「でも書いてある。」

また、同書には『太郎治小屋よりの消息書状』という史料があり、太郎治小屋の人足になった者が在所に夜具や煙草を送ってほしいと頼んだものだという。
その中に「太郎治道之儀ハ、飯高より壱里斗も山奥ニて御座候へ共、一向大道ニて人馬通光(通行)致候へハ・・・・・」とある。

地形図で距離を測ってみると4.3〜4.5kmで、「壱里斗」に符合する。

と言う事は上麻生村飯高からかよう谷をつめ、ベニ岩峠からカラス倉峠(或いは、カラス倉峠の下)を通り太郎治小屋まで馬が通える道があったことになる。ただ、ベニ岩峠とカラス倉峠の間にはシャレ山があり、迂回路はシャレ山の西側から北側を通る方が現実的と思える。

そんな訳で、馬が通ったくらいだからと、594mPの辺りで巻道の痕跡を探し、国有林界の辺りの平坦地で石垣を探した。

何かを間違えたのだろうか?????


《10月11日追記》

七宗町役場の回答。「旧太郎治小屋跡・多々羅屋敷跡の所在地は柿ヶ野です」とのこと。
多々羅屋敷跡は柿ヶ野番所近くにあったのは当然として、上記、図版1の記載は間違っていると判断できる。

しかし、もし太郎治小屋が柿ヶ野にあったとしたら『太郎治小屋よりの消息書状』には「飯高から」ではなく「本郷から」となり、距離の「壱里斗」ではなく「弐里」となるはず。

太郎治小屋跡の所在地は、図版1の記載の辺りが最適と思われる。
再度、役場に連絡をした。迷惑な話だろう。(返事は期待していない)


《2016年11月2日追記》

太郎治小屋跡を見付けた。そのページへ


美濃一人山名録2015カラス倉峠>太郎治小屋