《野中山について》 平成25年3月27日起稿
下記の地図は『小泉村土地宝典』昭和17年発行より転載 (津島神社の位置は現池原神社)
2013年2月5日、普賢寺参道にて地元のじい様に「池原神社の後の山に山名はありますか」と問うた所、「野中山」との返事をもらった。
その時、池原神社を含む丘陵と理解したが、「山のらくがき帳」 GG−さまから池原神社西方の山(現大沢町内)は古来大原村村内であり、「野中」の名前で呼ばれることは無いとのご指摘を頂いた。
(注:明治22年、根本村、大原村、野中村、北村が合併し、小泉村となった。)
その後、調べてみると
あのじい様の言った野中山は、正に池原神社の後の山で、普賢寺参道から見て大波佐川を挟んだ向こう側の山、即ち大字野中北入会 字大西山の山林を言ったのだと理解できる。ただ、あのじい様以外で「野中山」と言う人には巡り合わないが、何時か再会して確認したいと思う。
また、赤坂町から見ると池原神社付近の送電路の山の左に一塊の山が見え、これは御大典池西方の美山町内270mの山となる。ならば赤坂町(野中字赤坂と字大平、北字才竹)内にも、この入会の山を「野中山」と呼ぶ人がいるかも知れない。機会があるれば古い住人に聞いてみよう。
右:池原神社西方の鉄塔の山 左:美山町の山 赤坂町3号池から見る |
美山町203mP 2013年3月24日(日) 9時5分から10時50分まで
古い地形図にある203mP(『土地宝典』の地図にもある)は中央道で削られ、代わりに186mの標高点が表記されている。
この幻の標高点203mを探しに行った。
旧農免農道から少し上り、中央道のフェンスに沿って西へ行くと、イタドリの枯れ草で進めず、南の斜面はクズの枯れ草で登れない。少し戻って雑木林に入ると薄い踏み跡があり、尾根を行くとフェンスに当たった。中央道は、ここで切り通しになっていて、北側の方が高く、この付近が203mPなのだろう。
中央道沿いのフェンス | 旧203mP付近 |
下ると道に出合い、これを東進して御大典池を確認。引返して中央道の下をくぐると道は消えた。雑木林の中に暗渠があり、何の為にあるのか。ここを上ると尾根道があり左折して進む。右山になると分岐があり右の上る道へ、でもすぐにヤブに没した。
仕方なく尾根に上ると薄い踏み跡があり、何もないコブに上ったがここが270mの山になるようだ。踏み跡は北に続いたが植林になると踏み跡は消え、凹地の向こうに大波佐川があった。幸い立派な橋があり、渡ると広い敷地の民家の裏庭に入った。
凹地 | 大波佐川に架かる橋 |
もしかすると昔、普賢寺があった場所なのだろうか。背を低めて庭先を通らせてもらい車道に出た。
旧農免農道の南で農作業をしている人に「この辺りに池はないですか」と尋ねたが、御大典池しかご存知なかった。
次回は「美山の地 調整池」を探そう。(『多治見市全図』に表記されている。)
美山の地 調整池 2013年3月25日(月) 13時35分から14時40分まで
あぜ道を歩き、御大典池のえん堤からの道を行き、中央道をくぐった。暗渠の出口から尾根に上がり、尾根道を横切り、斜面を下ると暗渠の入口があった。その先の斜面にはU字溝があり、この斜面の雨水を御大典池に流しているようだ。
更に下ると、明らかに池の跡に下り立った。かなり以前に放置されたようだが、あの暗渠が調整池の機能をしているのだろう。調整池のえん堤から暗渠の位置まで戻り、踏み跡を東へ行ったが中央道の切り通しの上部で終わった。と言うことは、中央道がこの尾根道を切ってしまったようだ。
暗渠 | 美山の地 調整池跡 |
仕方なく調整池のえん堤から谷を下ったが踏み跡はなく、砂防えん堤を越え、平地になると竹やぶ、その中は凹地になっていてドロドロで歩けない。迂回して大波佐川に出合ったがかなりの段差があり、ズボンを汚して渡った。そして、そこは昨日、「調整池」を聞いた人の畑だった。
放棄されて久しい「美山の地 調整池」を知る人は少ないのだろう。ちなみに地形図には表記がない。
中央道 陸橋 2013年4月1日 9時45分から10時30分まで
中央道のフェンスの横を歩き、雑木林から道に出て、中央道をくぐった。尾根道を歩き、分岐を直進する。多少ヤブぽいが道がたは明確。所がガケ崩れに出くわした。どうにか越えると廃林道があり、これは間違いないとは思うが登って行き、枝林道と確認。
陸橋を探す為引き返すと、ガケ崩れの下に林道は続いていた。ヤブをくぐると確かに陸橋はあったが向こう側は潅木のヤブで進めず引き返し、才竹林道を通り、御御大典池から帰った。
ガケ崩れ | 陸橋 | 陸橋からの展望 |
治山事業の看板には多治見市美山町字大美山となっていた。「大西山」の字名は何時変更になったのだろう。